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葛西の歴史

2024.06.07コラム

葛西地区の民俗

 

 葛西地区は江戸川区の南端に位置する地区で、近世の村でいえば東宇喜田村・西宇喜田村・長島村・桑川村の四か村に下今井村の飛地を加えた地域です。明治二十二年(一八八九)にこれらの諸村は統合されて葛西村となったが、昭和七年(一九三二)の市郡合併によって江戸川区の宇喜田町・長島町・桑川町・下今井町・葛西一-二丁目・堀江町・新田一-二丁目・小島町一-二丁目の地域となりました。

 昭和五十三年(一九七八)住居表示の実施によって東・西・南・北・中のつく葛西に再編成され、新たに埋め立てられた陸地となった地域は清新町・臨海町となり今日に至っています。

 江戸川と中川にはさまれ、両川を東西に結ぶ新川を北限とし、南は東京湾に面しているこの地域は、典型的な加工デルタ地帯で、近世初頭以来干拓によって新田開発が行われ、これが近代そして現代にいたるまでの埋立て工事に継続され、地区の南部にみられる団地地帯の形成に繋がっているのです。

 この葛西地区の民俗相は、これまでに調査が行われた諸地区とは大きく異なる面をもっています。それはこの地区が縦横に水路の流れる低地帯特有の米作地帯である上に、農家の殆どが漁業を兼ねて生計を維持していたことによるものです。漁業といっても専業ではないから、近世以来本格的な漁業は認められておらず、いわゆる磯付村として沿岸の雑魚を獲って自家の食用とし海藻を採って肥料とするという條件を基にして、海苔の養殖を行い、アサリ、ハマグリ等の会の採取を行ってきました。

 しかし桁網・打瀬網等を使用して本浦に近い漁業を行う家もありました。そのため夏は稲作、冬は海苔養殖というサイクルを中心とし、貝捲や網による漁撈をその中に折り込むという他地区にない生活パターンが見られるようになりました。

昭和三十七年に東京都との漁業補償交渉が妥結し、東京都の内湾漁業は終えんを迎えましたが、それまでこの地域には葛西浦漁業協同組合が組織されていて、昭和三十六年十月現在で一、二四四名の世帯主である正組合員が加入していました。組合員の住所を見てみますと葛西地区の全域に及んでおり、解散時は、海苔養殖と貝が主体で、一部桁網・打瀬網・刺網・竹筒(ポーポー)・樫木張等を行う漁家もありました。

かつての葛西地区の農業は稲作が主体で、低地帯特有の湿田が多く、中には「フカンド」と呼ばれる腰まで入ってしまうという田もありました。

明治に入ると葛西地区では湿田を転換しての蓮根栽培が盛んになりました。有力な換金作物として注目され、東京市という大消費地を控え大量に出荷されるようになりました。蓮根栽培は他の作物栽培に比べて数倍あるいは十倍以上の肥料を必要とするといわれ、東京市の人口増加によって入手が楽になった下肥を、小名木川・新川づたいに舟で運び、舟から樋で直接蓮田に投入していたのです。

野菜の栽培は、近世には低地帯のため低調でしたが、近代に入って東京市民の需要にこたえ次第に盛んになり、特に摘み菜の生産が有名になりました。

葛西地区の四か村にはそれぞれいくつかの村落があり、各村落ごとにムラの組織があり、茅場・水路などの共有財産の管理を行い、婚礼や葬儀あるいは屋根の葺き替えなどにあたって相互扶助を行ってきました。鎮守の社の管理や祭礼の執行もムラの組織がこれにあたってきました。

例えば西宇喜田村に例をとってみますと、この村には三角・中組・拾四軒・十軒・七軒・棒茅場・六軒・十八軒・宇喜田新町(拾四軒から分れた村落)といった村落つまりムラがあり、これらのムラごとに若者組があって道路や水路の保全、地域内の警備、祭礼の執行、葬儀の手伝いなどにあたっていました。

このような村落組織は都市化に伴って町会組織に移行し、また青年団に変ってゆきました。鎮守の管理にあたっては、西宇喜田地区では現在でも各村落を単位として一名ずつの氏子総代を出しております。

また各村落ごとに稲荷社がまつられていて稲荷講があり、初午にはこの講が中心となって祭事を行っていましたが、稲荷講がそのまま村落組織としての役割を果たしているところもありました。

各村落には念仏講があり、老人男女が加入していて毎月あるいは年何回と家々を交替に宿にして集まり念仏や和護を唱和していましたが、老人たちの娯楽そして情報交換の場にもなっていました。

講集団について見てみますと、各村落ごとに富士講・御嶽講(武州御嶽・木曽御嶽の双方がある)・三峯講・大山講・伊勢講・成田講等遠方に泊りを重ねて出向く信仰団体の多いのが目立ちます。

この傾向は東京湾岸の旧漁村や旧半農半漁村に一般的に見られる形です。純農家と異なり、魚貝類の捕採あるいは海苔の養殖などが現金収入を多くもたらしたものと考えられます。富士・大山・三峰・御嶽・木曽御嶽などの山岳信仰の多いことも湾岸地域の特色です。

衣食住についても漁業とのかかわりが見られます。

衣服については海に出るときが冬の場合が多いため、寒風吹きさらす海上で仕事がしやすいように配慮されています。頭にはモウロクズキンをかぶるか手拭いで頬被りをしい一般の農家では労働衣として男は印半天・腹掛・股引を着用しましたが、ノリ漁家では下体は股引をはくが、上体にはジュバンの上に刺子の半天を多く着ていました。

刺子は家で刺しましたが勿論防寒のためです。ノリヒビに付着するノリをとるので海中深く手を入れるため(ノリ網になってその必要がなくなった)、片袖を取りはずせるようにしたものも使用していました。上体に片袖のない綿入れを着て海に出る人もいました。のちにジュバンはメリヤスのシャツになり、股引はズボンになりました。

女子は海上には出ないため、ノリ関係の仕事も農作業も木綿の着物を着たままで行っていました。

冬は防寒用に綿入れの半天を着ていました。

食事も農耕と漁撈ではこれをとる時間が異なります。ノリの採取や貝の捕採は潮の引き加減に大きく左右されます。冬のノリとり作業は早暁に出船しなければならず、午前三時・四時に朝食をとるという形が一般的でしたが、一般の農家では午前六時頃にとっていました。

漁家では朝食が早いので、昼食を早くとって午後二時か三時に餅とかサツマなどを中間食とする家も多くありました。またもう一食夜食として午後八時から九時頃に食事をする家もあり、食事回数は四回から五回でした。

出漁して海上で食事をすることもあり、小型の櫃に飯を入れて舟にのせました。

日常の主食は麦を多く混入した米飯で、家によって混合率は異なりましたが、中には麦を米よりも多く入れた飯を食べている家もありました。そのため正月や三月・五月の節句、浜祭、鎮守の祭礼などに餅をつき、出産、宮参り、初潮などに赤飯をつくり、一日と十五日には小豆飯を炊くなどして、生活に潤いをもたせていました。また庚申待や稲荷講など講の集まりに参加する人たちは白米の飯を鱈腹食べることを一つの張り合いにしていました。

 

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